平和の教え、命の尊さ。
戦争反対を唱え続けた学園創立者・植原悦二郎の願いを受け継ぐ、平和教育
松本第一高校の母体である外語学園を創立した植原悦二郎先生(1877〜1962)は、現在の安曇野市三郷に生まれ、苦学してワシントン州立大学、ロンドン大学に学ばれました。帰国して、大学で教鞭をとった後、衆議院議員当選13回・在職34年、国務大臣・内務大臣を歴任し、政治家として活躍。太平洋戦争前には、軍部の政策をするどく批判し、一貫して戦争反対を唱えつづけた、国際派デモクラットでした。自身の留学経験と太平洋戦争の経緯から、これからの日本を背負って立つ青少年に豊かな国際性を学んで欲しいと願い、1957年、私財を投じて外語学園を創立されました。
その植原先生の遺志をまもり、伝えるため、本校では毎年「平和教育集会」を開催しています。集会では、学外から講師を招き、命の尊厳についてお話をうかがったり、研修旅行や遠足の際にも、沖縄の平和祈念資料館やガマ(壕)、松代の大本営地下壕予定地跡などに足を運び、戦争が残した負の遺産から多くを学ぶ機会を設けています。
「植原悦二郎先生と憲法」
戦前の植原先生の留学体験について
27歳でワシントン州立大学に入学。アメリカ政治学とアメリカ哲学を深く学び卒業した植原先生は、30歳の時にイギリスに渡る。知る人ぞ知る「ロンドン大学の通称『L・S・E(London School of Economics and Political Sciense)』(小規模ながら権威ある大学院で、当時も今も世界レベルの優秀な教授、ノーベル賞の学者を輩出している。)」で博士号を取得。
植原先生は、このL・S・E在学中に博士論文“The Political Development of Japan 1867〜1909”(『日本政治発展史』)を書き、好評を得て発刊された。
帰国した槇原先生について 世界平和の政治学を教えるために大学教授になる。植原先生の政界平和への思いはこれでは終わらず、世界平和を胸に政治家に。
政治家としての槇原先生について
政治家・槇原悦二郎は、第29代内閣総理大臣、犬養毅に最も信頼されていた政治家であった。衆議院副議長の役職にあった時に「5・15事件」が起き、この際に犬養毅のもとに一番に駆けつけたのは実は植原先生であった。また、第二次世界大戦のさなかには、議会の場で堂々と戦争反対を説いたことでも知られている。終戦を迎えた後も政治家を続け、吉田茂内閣の時には植原先生は国務大臣を務めていた。この時期に制定された日本国憲法。この憲法の「前文」と「第1条」には、L・S・E時代に植原先生が書いた「あの論文」の表現がそのまま引用された。そして、発布された憲法の最初の頁には植原先生のサインが書かれている。